あと45秒です!

日テレNEWS24に出演したときの動画を貼りつけます(4月27日:GM再生とトヨタ問題)。

私の担当時間は8分。番組はナマなので、時間通りに進行しなくてはいけない。

キャスターの中島静佳が横に座っているので、それほど進行を気にする必要はないが、カメラの横にいるフロアディレクターから残り「7分」、「6分」、「5分」と書かれた紙を順にだされると、そのたびに心臓により強い波が打ちつけられる。

番組の前に、ディレクターから「堀田さん、8分ですが9分くらいまでは伸ばせますから」と言われていた。

残り時間を示す紙が、いよいよ「1分」に変わる。

「まとまるかなあ」

口調をいくぶん速めながら、まだまだ話すことがあるのでどこを外すかを考えながら、再びフロアディレクターをみると、「45秒」がでた。

「足りないや」。一瞬アッとなる。「今日は足りない」

8分を使いきってもまだ話は終わらなかったが、コーナーはなんとか9分以内で終えられた。

話す内容を気にしながらフリップを出し、残り時間に目をやりながら、キャスターの目を見て話す。その向こうには視聴者の方がいる。

要求されるのは「マルチタスカー」。(敬称略)

中国からの「ああしろこうしろ」

今朝(4月26日)の日経を読んでいて、気づいたことがあった。それは中国から学ぶという姿勢である。

経済指標を見れば明らかだが、日本は何年も前から中国に多くの分野で超されることはわかっていた。数字上ですでに抜かれた分野は多い。同時に、中国は日本にアドバイスをするようになった。今朝の朝刊にも2つあった。

日本はこれまで、外国から学ぶという時にヨーロッパやアメリカに目をむける傾向が強かった。けれども、いまは中国や韓国から学んでくるという流れができてきた。10年前にはほとんどなかったことである。

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朝刊には精華大学国情研究センターの胡鞍鋼(こ・あんこう)と野村資本市場研究所の関志雄(かん・しゆう)が持論を展開していた。

持論の展開というより、日経の記者が「ご意見を拝聴する」という姿勢の記事であり、2人は日本に辛口の意見を述べている。いささか被害妄想的かもしれないが、2人には「もう中国の方が日本よりも上だから、よく聴くように」と言われている気がする。

胡鞍鋼は日米の社会格差を比較している。両国の格差は広がっているが、中国の方は経済のパイが大きくなる中での格差なので低所得者も頑張ればよい生活が送れるという主張だ。一方、日本は収入が増えない中での格差なので「悪性の格差拡大」であり、解決策がないとまで言う。

また関志雄は日本の英語教育へきわめて現実的な論考をくだしている。私も英語教育には自分なりの思いがあり、実は関の主張とほぼ同じなので異論はない。けれども、関の口調には日本人への蔑みが隠されているようですらある。

日本人が英語を話せないのは、多くの教員が英語を話せないからところに一因がある。

「一向に改善されないのは、日本経済が変われないのと同じで、英語教員が既得権益化し、改革に反対するからです。(中略)中国には来日経験がなくとも、大学で日本語を専攻しただけで、日本語がぺらぺらの人がたくさんいます。でも日本の大学で中国語を専攻しても、なかなか中国語を話せない。この差は何なのでしょうか」

2人の意見を耳にして、今後中国から「日本はああしろこうしろ」と言われる機会が増えるとの観測がある。今朝の記事内容については、冷静によめば正しい現状分析であることがわかるが、読者の中には感情論を持ち出す人もいるだろう。

日本政府は戦後ずっとアメリカの「ああしろこうしろ」といった要求を飲んできた。賛否のほどはともかくとして、アメリカ従属論を堅持することで日本経済が長年上向いてきたことはある意味で事実である。

けれどもアメリカ従属論に食らいついているだけではもはや日本経済の復活がないことが分かってきた今、今度は中国からの「ああしろこうしろ」といった声に耳を傾けることになるだろうかとの問いがある。答えはたぶん「ノー」だろう。

それは日本人が潜在下で抱えるメンツに触れるからである。その摩擦機会が増えると、今後、日中両国で感情的な軋轢が大きくなる可能性もある。

それとも若い世代は中国からの「ああしろこうしろ」に従順にうなづくのだろうか。(敬称略)

フォーリンフード

「本国を超えるものはない」

日本では他国にもまして、世界中の料理がたくさん食べられる。

けれども中国、フランス、イタリア、タイ、ベトナムなどの各料理を食して、本国のレベルを超えるほどのものは皆無にひとしい。これは日本に限ったことではなく、世界中で同じことがいえるのでいたし方がない。別に私がここで述べる必要はないだろう。ただ「なんとかならないか」という個人的希求が強い。

国境を越えるとさまざまな要素が加味されたり抜け落ちるので、ほとんどの料理は微妙に変化する。それが料理、ひいては文化のよさでもある。たとえば、鮨が海を越えてアメリカに渡ると「スシ」という微妙に違うものになり、広くアメリカ人に受け入れらるようになった。

「あれは鮨ではない」という人もいるが、文化の流れは誰も止められるわけもなく、むしろ興味深い。アメリカの「スシ」を食べ慣れた人は日本の鮨よりも好きという人さえいる。それはフィラデルフィア・ロールやボストン・ロールといった独自の巻物だけでなく、他国料理とのフュージョンであったり、シャリの中に含まれる砂糖の割合が日本の鮨屋よりも多いことが理由にある。

20数年前、ワシントンの鮨屋でシャリの作り方を実際に見た。その店では酢に合わせる塩と砂糖の分量が同じだった。それはそれはすさまじい量である。それまでシャリに砂糖が入ることなど知らなかった私には、ギョッとするほどの多さだった。

全米の「スシ」屋が同じ割合ではないが、日本の鮨屋より確実に砂糖の比率が高い。だからニューヨークで食べる本マグロの握りは、銀座の鮨屋で食べるものと見た目は似ているが、違うのである。日本では鮨屋によってまったく砂糖を入れないところもあり、味の違いは歴然としている。

違うものが生み出されることは歓迎するが、同時に本国のものと同じ味を外国で出してほしいと思う。アメリカに銀座の「さわ田」レベルの鮨屋が誕生することを願うし、逆にニューヨーク市ブルックリンにあるピータールーガー(ステーキ)が日本に来てほしいとも思う。

けれども、それが難しいことも経験上よく理解している。甘いシャリに慣れてから江戸前の砂糖ナシの握りを食べると、辛く感じることさえある。アメリカで砂糖が多くなったのは、ひとえにアメリカ人に食べてもらうためである。甘いほうが彼らが美味しいと感じるからだ。「さわ田」をボストンにオープンしても、経営が成り立たない可能性が高い。

それと同じことが中国料理やフランス料理にもいえる。砂糖の量ではなく本国の味という意味である。日本で食べられるフォーリンフードの99%は、日本人の味覚に合わせてあるといって差し支えない。それでないと客が来ない。

たとえば中国と日本の中国料理では、食材はもちろん、油と香辛料が決定的に違うからまったく別物と考えるべきだ。たとえば上海料理の源流の一つである寧波(ニンポー)料理は豚脂をよく使い、薄味の日本の中華料理になれた方には合わない。

フレンチしかりである。以前、料理評論家の山本益博氏がTVで「他のフレンチのお店には申し訳ないが、日本で本物のフレンチを味わえるのはジョエル・ロブションとロウジエの2軒だけ」と言っていた。同感である。東京だけでフレンチのお店は数千軒あるだろうが、99%は日本人向きである。

つまり、外国の「あそこで味わった最高の味」というものは日本ではまず再現されない。簡単な料理でさえそうだ。私は都内でずいぶんハンバーガーを味わっているが、まだ「最高!」という店に出会っていない。食べログのランキングにはガッカリさせられるだけだ。

先日も食べログで上位にランクされている原宿のハンバーガーをほおばったが、10点満点で2点くらいでしかなかった。こちらの期待が高すぎるのかもしれない。

アメリカのレストランでチーズバーガーを注文した時、ファーストフードの店は別にして、「肉の焼き具合はどうしますか」と聞かれないことはない。赤身のパティをヒッコリーチップ(北米産クルミ材)で燻製にし、「レア」でバランスよく出してくれるレストランは私の知る限り、日本にはない。                      

レストランだけではない。パンひとつをとってみてもそうである。私は調理パンをトレイに取ってレジに運ぶ日本のパン屋が好きで、たまにバゲットも買う。友人のフランス人女性が言った。

「あれは似て非なるもの」

                

 

                                

日本のバゲットは皮が薄過ぎると同時に、味に深みがないらしい。フランスでは1人で朝食にバゲット1本を食べ、昼も1本ということがあると話す。それくらい美味しいと強調する。フランスに住んだことがないので知らなかった。むしろ知らないということの方が、ある意味で幸せかもしれないと思ったりもする。

味覚というのは極めて繊細で、体の調子、温度や湿度、また店の雰囲気や食器などでも微妙に違ってくる。またこれまでの人生でどういうものを食べてきたかによっても、感じ方が違う。

私の望みは本国と同じかそれ以上美味しいものを日本で味わうことだが、1%の店にいつも行けるわけではないので諦めている。けれども和食については世界最高のものを食べられるのがうれしい。

それにしてもフォーリンフード、、、、アアである。

新しい本

来月、新しい本がプレジデント社から出版されます。読んでいただけましたら幸いです。

なぜアメリカ金融エリートの報酬は下がらないのか ― 肥大する「超格差社会」のカラクリ

なぜアメリカ金融エリートの報酬は下がらないのか ― 肥大する「超格差社会」のカラクリ

少し長いタイトルですが、アメリカ社会の「歪み」を長年のアメリカ取材で描いた作品です。

そして16日、普天間問題の混迷を下記のサイトに書きました。

「最大級の敗者」鳩山に問われる普天間の落し前

菅直人、つまらない会見

4月12日午後1時半過ぎ、財務大臣の菅直人が日本外国特派員協会の記者会見に現れた。冒頭、

「(政治的に)難しい時期なので、本当はここには来たくなかった」

と本音を漏らした。

大臣という要職にあれば、誰もが発言には細心の注意をはらう。そのため目新しいことは口にせず、会見としては退屈な内容だった。

「この内容では記事にならない」(イギリス人記者)

「新しいことを期待したが、あてが外れた」(アメリカ人記者)

同席した仲間の反応も散々だ。

無理もない。6月に発表する新成長戦略の内容はまだ煮詰まっておらず、この時期に消費税、法人税、所得税についての詳細を述べるわけにもいかない。逆に基本的な財政政策は専門家であれば誰しもが知る。

「国債発行残高がGDPの180%で、経済成長を遂げながら赤字をどうやって減らすのかを議論してなくてはいけない」

そんなことは民主党政権が誕生する前からわかっている。本来であれば、昨年中に答えが出ていなくはいけなかった。普天間問題についても「担当大臣ではないから」と口をつぐんだ。

与党の側に身を置くと、なぜ政治家はみな同じ性向を帯びてしまうのだろうか。(敬称略)