バンクーバーの陰

連日、バンクーバーからオリンピックの話題が届けられているが、テレビや新聞を眺める限り、日本人選手の参加している競技にしか光があたっていない。

NHKのBSを観ればカナダとアメリカのアイスホッケーの試合も観戦できるが、「かなり好き」というレベルでないと、そこまで手が回らない。オリンピックというのは自国の選手を応援する国別対抗戦だから無理もない。

だが、主要メディアによって選ばれた映像だけでなく、情報も伝わらないので、「一部だけしか見せないよ」と言われている気がする。それによって、陰の部分が見えなくなっている。

たとえば、カーリングはチーム青森が奮闘していることから、女子の競技だと思っている人がいるが、もちろん男子もある。日本の男子チームが出ていないだけである。

逆にアイスホッケーは男子だけだと思われているが、女子アイスホッケーも1988年からオリンピック種目になっている。テレビも新聞もほとんど報じないので、知らないだけである。

その中で、いまだに男子だけの競技がある。スキーのジャンプである。男子だけでもいいと思われるかもしれないが、実は女子のジャンパーも大勢いる。

しかも女子ジャンプをオリンピック競技に入れるための訴訟まで起きている。私は当然、女子ジャンプもあっていいと思う。危険という理由はまったく当たらない。男子でも危険であり、女子でもすでに飛んでいる選手がいるので否定する理由がない。

バンクーバーから競技種目に入れる動きがあったが、国際五輪委員会(IOC)は拒否しつづけてきた。けれども2014年のソチから加わる可能性がある。

すでに欧米にはメダルを狙う女子ジャンパーがいるので、日本のキッズも今から鍛練してどんどん空を舞うといい。

       

清冽!

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滝をみたくなったので、昨年撮った写真を貼りつけます。

南米イグアスの滝。 

もう一人の上村愛子

上村愛子にはなんとしてもメダルを獲ってほしかった。

しかし、現実は厳しい。4年前のトリノで悔しい思いをし、その後、メダルをめざして筋力トレーニングを積み、過酷な練習をこなしてきたがメダルには届かなかった。

実は上村と同じような思いを抱いていた選手が他にもいた。4年前、上村と同じようにトリノで惨敗し、試合後に大泣きしたハナ・カーニー(アメリカ)である。

              

トリノでは勝つつもりだった。しかしメダルも獲れず、数カ月は敗戦のショックからふさいだ。ようやく練習を再開した頃、今度はヒザを負傷し、ほぼ1年間は満足に滑ってもいない。トリノのショックは予想以上に大きく、トラウマは数年におよんでいた。

けれども上村同様、アスリートは練習をすることで自信という階段を一歩一歩登っていくしかない。カーニーはコーチのメニューを着実にこなしていく。昨夏、プールに着水するジャンプを1000回ほどこなした。スキー場でのジャンプは計1万4000回を超えたという。上村も同じように練習したはずだ。 

カーニーは昨シーズン、ワールドカップで総合優勝をはたすが、今シーズンはスランプに陥っていた。1月のユタ州での大会では勝てずに、やはり大泣き。

しかし14日(日本時間)の本番で、カーニーはディフェンディング・チャンピョンのジェニファー・ハイル(カナダ)を破って金メダルを獲る。

何がカーニーと上村を分けたのかは、私にはわからない。実際に二人を取材していない。取材したとしても、その差は目に見えるものではないだろう。

15日朝、民放の解説者は「カーニーは本能で滑ったような気がします」と言ったが、何万回もの練習のあとの滑りであり、本能で勝てる競技でないことがわからないのだろうか。

二人には同じ努力賞を授けたいが、いまの上村はそんなものを喜ばないだろう。

トヨタもできていなかった危機管理

先週の国内ニュースは小沢一郎の不起訴と朝青龍の引退にもっていかれた感がある。

どちらもがっかりさせられるニュースだったが、もう一つ、財界で大きなニュースがあった。トヨタのリコール問題である。

アクセルペダルに関連した大規模なリコールで会社側の対応がおくれ、日米で批判が噴出している。アメリカ政府はそれを利用しているようにもみえる。

問題が起きることは致し方ない。人のいとなみに完璧はない。人間が完璧でない以上、理念的に完璧なものを創ることはできない。重要なのは問題が起きたときにどう対処するかである。

簡単なことではないが、切り返しがうまければベクトルをマイナスからプラスへ転じられる。しかし、先週のトヨタの対応はマイナスをさらに深まてしまった。

金曜昼、外国特派員協会の仲間とランチを食べながら、トヨタのリコール問題を話し合った。前日に行われたトヨタの記者会見での対応の悪さが皆の口から噴出した。私は出席していなかったので、彼らの思いを記したい。

        

            

フィナンシャル・タイムズ紙のマーティン・コーリン記者は満足な情報が得られなかったという。

「問題の責任者が誰なのかはっきりしていない。記者会見を開きながら、事実を満足に伝えることさえしない。問題を調査中なら、判明した事実を適時インターネットで公開すればいい。こんな簡単なことさえできていない」

ドイツのフランクフルター・アルゲマイネの特派員も批判する。

「記者会見では基本的な事実を記したプレスリリースさえ配らなかった。ブレーキ問題でアメリカでは何件くらいのクレームがきているのか。日本ではどうなのかといったこともわからずじまい。準備ができていないのなら会見は開かないほうがいい」

スイス放送協会の記者もいう。

「世界のトヨタも危機管理ができていなかったことが判明してしまった。情けない」

ただ、三人ともプリウスの性能のよさは認めている。別にトヨタが奈落の底に落ちたわけではない。かんじんなのは、問題が起きた時の対処法である。(敬称略)

(連載記事:堀田 佳男 – プレジデントロイター

極限の美

「絵かきでは誰が好きですか」

この質問を受けたとき、私は20年ほど前から「ルノワール」と答えている。

「あまりに普通」と思われるかもしれないが、彼の油絵が一番「胸にくる」のでしょうがない。六本木の国立新美術館で開催されているルノワール展に足を運んだ。

ンー、やはり「いいな」という思いが強まった。

ルノワールの絵を好きになったきっかけは「喫茶店」、、ではない。ある絵との出会いだった。

ワシントンにスミソニアン博物館群があり、その中に近代美術をあつかった「ナショナル・ギャラリー・オブ・アート」という美術館がある。そこに「踊り子(Danseuse)」という絵がある。

立ち止まって、しばらく動かなかった。いや動けなかった。胸ぐらをつかまれて、その場に押しつけられる思いだった。美術品のよさは感性への直接的な刺激である。その絵のどこがいいのかという理由は、あとづけの説明でしかない。

人に説明する時に、「いやあ、よかった」だけでは言葉が足りないし、自分自身がなぜ動けなかったのかを自身に納得させるためにも言葉が必要になる。けれども、一幅の絵画がもつ力は、時に1万語の説明よりもインパクトが大きい。どんな説明も弱々しく思える時がある。

だからナマの絵に勝るものはない。画集や図録から動けなるほどの感銘を受けることは少ない。ひとつには大きさが伝わらないからだ。

「踊り子」は大きな絵だった。縦142センチ、横93センチというサイズである。逆にルーブルの「モナリザ」は想像よりもはるかに小さな絵だった。

そしてナマの油絵だからこそ感じる肉質と色の濃淡によって、自身の内部に自分だけの絵が刻まれる。ワシントンに住んでいる間、あの絵を観るためだけに50回以上は行った。

残念ながら、六本木の展覧会に「踊り子」は来ていなかったが、あとづけの説明を少しすると次のようになる。

一言で述べると「プラトン的イデア」なのである。モデルである「踊り子」の美はキャンバス上にはない。日常を超越し、モデルから醸された女性の真の美しさが抽出され、観念的な領域にたもたれた極限の美が描かれている。

一人の女性から普遍的な美を抜きとるルノワールの力は、他の画家にはなかなか真似ができない。私はボナールもマティスも好きだが、ルノワールが先頭にくる。

けれども「踊り子」は、1874年の第1回印象派展で「デッサンがでたらめ」と酷評される。けれども私にとってはこれ以上の絵画はないのである。