猫がきっかけ

久しぶりに大阪に行ってきた。

「オバマ政権と日米関係」というテーマで講演するためである。選挙中からオバマについてはいろいろと書いてきたので、集積してきた経験と知識をすこしでも多くのかたと共有できればと真に思う。話をする機会を頂ければ、できるだけお応えするようにしている。

東京から大阪に向かう新幹線は空いていた。まして車中で講演の準備をしていたため、まわりの人にはほとんど関心がおよばなかった。浜松を過ぎたあたりでトイレに立ち、席にもどるときに通路の反対側に目をやった。見覚えのある人が私の席とちょうど反対側に座っていた。

「養老孟司だあ」

新幹線や飛行機に乗ると、メディアに登場する人と出くわすことはよくある。そこでお友だちになれるわけではないが、なんとなくミーハー的な熱が一瞬だけ表出する。しかし、こちら側によほどの理由があるか、熱烈なファンでない限り声をかけることはない。私は「養老さんだあ」と心の中でつぶやいただけで、自分の席にもどった。

『バカの壁』は流し読みしたが、大ファンと呼べるほどではない。ただ、妻が「うちのまる」という彼の本を持っている。「まる」というのは彼の飼い猫で、愛らしい写真がたくさん載っているほのぼのとした本である。

私の家にも猫が1匹いるので、携帯の中にセーブされている互いの猫の写真を見せ合いながら(きっと彼もセーブしている)、猫の話だったら語り合えるかもしれないと思いつつ、時おり反対側の席に目をやっていた。彼は車内販売のコーヒーとアイスクリームを買って、単行本をずっと読んでいる。しかし、言い出すきっかけがつかめない。

ジャーナリストという仕事を職業にしてから、私は知らない人に声をかけてインタビューしたり、未知の世界に飛び込んでいくことに違和感どころか喜びさえ感じるようになっていたので、養老孟司に声をかけることは何でもないことだった。だが新幹線の車中という、一人で静かに読書を楽しめる空間を邪魔することはいかがなものかとの思いがあった。

「どうしようかなあ」と思いながら、自分の講演内容にも思いをはせていると電車は京都に着いた。ふと横をみると、彼はすでに席を立って出口のほうへ歩いていた。

「遅かった」

講演ではオバマ政権の誕生と今後について、自分の思うところをお話した。質疑応答を含めて2時間では足りなかった。聴いてくださった方々がどう受け止めてくださったかはわからないが、たいへん楽しめた2時間だった。

帰りの新幹線も空いていた。反対側の席に目をやると、「エエエエー、プロレスラーの蝶野正洋だあ」。独特なサングラスと髪型、革製のパンツが印象的だ。

そういえば彼も猫を飼っていたように記憶している。彼のファンではないが、話をする人としては面白いかもしれない。

「ここは行ってみるか」。そう思っていると、彼がスッと立ってトイレの方に向かった。

「ンッ?背が小さい。別人だ」

人生、こんなものである。(敬称略)