終身刑と無期懲役

織原城二に無期懲役の判決が下った。

だが、ルーシー・ブラックマンさんの事件では無罪になった。東京地裁は他の連続女性暴行事件との類似性はあるが、状況証拠だけで織原を有罪にはできないとの立場をとった。

わたしは極めて妥当な判決だったと考える。

これまで、裁判所が状況証拠から推認して被告に有罪を言い渡した判例はあった。ルーシーさんも他の9事件と同じような手口で織原の毒牙にかかったと見る方が自然だろうし、遺族の感情を考慮したらルーシーさん事件も有罪でしかるべきだと多くの方は思うだろう。

だが少し待ってほしい。わたしは過去6年半、この裁判の成り行きを見守ってきたわけではなし、刑事事件を専門に追うジャーナリストでもないが、被告は法廷に提示された証拠と論拠によってのみで判断されなくては、真の意味で裁判の信憑性が失われる。

法廷で検察が確たる証拠をしめせない場合、いわゆる合理的疑いが残る。これを無視して被告を有罪にしていくと冤罪が増える。裁判は客観的な証拠と検察官の説得、弁護士の弁論の統括によって判決がだされなくてはいけない。その意味で、ルーシーさん事件での小原無罪は妥当な判決と考える。

今後、裁判員制度が導入されて、「どう考えても織原がやっているだろう」という一般的には広く受け入れられるが、法曹界ではきわめてあいまいな仮説に依拠して被告を裁いてしまうことの方が心配である。

実は、わたしは死刑廃止論者である。以前、凶悪犯は当然のように極刑に処されるべきだと思っていたが、後年、考え方が変わった。一番の理由は、いくら大罪を犯しても国家が人の命を奪ってはいけないと思うようになったからだ。

そのかわり無期懲役ではなく、日本にはまだ導入されていない終身刑の法整備をする。仮釈放も許さない。死ぬまで塀の中で過ごさせるのである。大罪を犯した凶悪犯を更生するなどという考えは捨てる。社会に出してはいけない。

だが、命には手をかけない。これが近代国家のあり方だろうと思う。(敬称略)

銃社会を解体するために

バージニア工科大学での銃乱射事件は、あらためてアメリカの銃社会の矛盾を提示したように思う。

1993年に「ブレイディ法」といわれる銃砲規制法が施行され、銃購入者の身元確認と数週間の保留期間が設けられた。それによりほとんどの州で殺人事件の発生率が減少したが、すでに2億4000万丁といわれる銃砲が社会に出回っており、そちらの規制はない。毎年のように学校内での銃乱射事件が繰り返されている。

新しい銃砲の購入規制だけでなく、すでにある銃砲の規制・撤廃に動くことが大切である。もちろん全米ライフル協会の強力なロビイング活動は知悉している。規制法案が成立しにくい政治事情だけでなく、銃を所有することの法的な権利、さらに伝統的に銃による護身と晩餐のおかずを獲ってくるという狩猟の民としての文化も熟知している。

それでもなお、厳格な銃規制の動きを活発化させるべきだと思う。1588年に豊臣秀吉が刀狩りを行ったように、連邦政府が主導して段階的な「銃狩り」をすべきだと思っている。政府が強い規制と撤廃の方向を示さないといけない。

いくらハンティングがアメリカで人気のあるスポーツであっても、「銃をもつことがアメリカの文化だから」と言い続けていられない時代に入っていると思う。決して不可能なことではないはずである。

文明の衝突

ワシントンから東京に戻ってそろそろ2カ月がたとうとしている。

25年間のアメリカ生活がわたしの細胞の隅々にまで沁みこんでいる気がするので、そう簡単に東京の住環境には慣れない。一昔前、商社の人たちがよく口にしたのは、「海外に1年いると元に戻るまでに1カ月かかる」ということだ。5年だと5カ月。25年だと約2年半だろうか。

しかし、自分のなかの何かが四半世紀の間に確実にアメリカ化したので、元の日本人には戻れないと思っている。ある意味で、日本では仲間はずれにされるタイプの人間として舞い戻ったような気がする。

突然だが、話をサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」に移したい。わたしの経験が「文明の衝突」に直接関係あるわけではない。今週、アメリカの論壇界で「文明の衝突」に関連するコラムが話題になったからである。

ハンチントンの「文明の衝突」が発表されたのは1993年のことである。ハーバード大学の教授は、21世紀はそれまでの国家間の対立に代わって民族や宗教が要因となって世界各地で衝突が起こると説いた。国家という枠組みが崩れるという内容である。

論文が発表されたあと、世界中で賛否両論が巻き起こった。それは現在も続いている。ニューヨーク・タイムズのコラムニストであるデイビッド・ブルックスは今週、「物語としての戦争」という題のコラムで、現在の中東紛争は「文明の衝突」ではなく、「文明の裂け目」のせいで起きていると説いた。

違う民族は本質的にコミュニケーションがとれず、共通の目標ももてず、物語を一緒に語れないという論点である。ところが中東の政治学者などから、その考え方は違うとの反発が起きている。

違う民族や宗教であっても十分にコミュニケーションはとれているし、近代国家として共通の目標をもっているというのだ。むしろブルックスのような否定的な態度こそが事態を悪化させていると反論した。

両者のどちらかが論争に勝利したところで、現在のイラク戦争やイスラエルを軸にした中東紛争が解決するわけではない。唯一いえることは、アメリカの中東政策の破綻によって「文明の衝突」がいま加速しているということだ。

何ごとにも突出しがちなアメリカの性向を日本に持ち込んでいるわたしは、周囲と混迷を深めることだけは避けようと思う。(敬称略)

都知事選と大統領選

現職石原に軍配が上がった。

横暴な物言いの石原対左翼崩れの浅野という二者択一の選挙だったが、戦いにならなかった。数週間前、少人数の勉強会に出席したとき、メンバーの衆議院議員が「浅野が圧勝する。賭けてもいい」と明言したが、大ハズレだった。

知事選は首相の選出方法とちがい、有権者の直接投票で決まるのでよくアメリカ大統領選と比較される。しかも東京は人口と予算規模から小国の大統領に等しい。

そうなると、わたしがライフワークとして追う大統領選の諸要因をみることでさまざまなことが見えてくる。大統領選とではカネの集まり方と選挙期間、さらにTV広告の自由さの3点で大きな違いはあるが、敗因は似てくる。それは経済である。

過去50年のアメリカ大統領選挙をみてもそうである。もちろん他の要素もあるが、好況にわく経済をバックにして、トップを引きずり降ろす国民はいない。ワシントンから東京にもどってまだ1カ月余だが、「景気は確実に上向いている」という話をいたるところで聞く。

石原がいくら公金を個人的に使途していても、既存メディアは糾弾しきれていない。しかも2月の完全失業率は4%で保たれ、町に失業者があふれているわけではない。企業業績も株価も上向きである。東京の町から火が消えたような状態であったなら浅野に軍配が上がったかもしれない。だが、そうではなかった。

さらに浅野には政治家としてのカリスマ性が無さすぎた。それは選挙直前に出版された浅野の単行本の売れ行きの悪さにも表れていた。出版担当者は「売れてない」とはっきりと言った。

大統領選の黒人候補オバマの自伝はベストセラーである。大きな違いだ。石原の再選はすでにはるか前から決まっていたのである。(敬称略)

アメリカの分断

コーヒーを飲みに入ったカフェの隣席に、外国人が座っていた。英字新聞を読んでいる。外見からだけでは出身国は判別できないが、アメリカ人らしい空気を携えていた。

「日本には長いんですか」

日本語で訊くと、「ハイ、かなり」と返してきた。いくつかの大学で英語を教えているという。日本に来てすでに15年が過ぎたと言った。

「10年前はアメリカ人であることを誇りにしていましたが、最近は出身国を訊かれるまで言わなくなりました。むしろ、アメリカ人でいることが恥ずかしい」

その背後にはブッシュ政権の負のイメージが宿る。イラク戦争による負の遺産が世界中に撒き散らされ、人々の中のアメリカに汚点がついた。アメリカもずいぶんと嫌われたものである。

もちろん音楽や映画、ファッションやビジネス分野などで日米両国のつながりが途切れることはない。だが、横暴な国というイメージは一人歩きしている。

「とても残念なことです。来年の選挙で民主党が勝って新しいアメリカに生まれ変わることを望んでいます」

見事な日本語でそう語ったあと、彼はどこにでもいる普通のアメリカ人の顔をのぞかせた。じっとこちらの目を見つめている。誠実そうな顔立ちが、教師としての優しさをうかがわせる。

「アメリカはいまふたつの国を内包しています。ブッシュを支持する保守国家と反対するもうひとつの国家です」

以前からアメリカは政治的にずっとふたつに割れていた。しかし、ブッシュ政権になってからさらに顕著である。しかも社会格差が広がっているので、貧富の差という割れ方もあり、縦と横でアメリカは分断されている。

アメリカの外から亀裂をみると、その裂け目はますます深く大きくなっているように見える。その亀裂がふさがる気配がないのが残念である。